Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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【4】

明野村B



「生存とテクノロジーを巡る覚書16」
次に、ある個人が、テーマ文1に対して、「子どもが健やかに成長することはすべての親の望みである。しかし、成長とともに難病などになってしまうと分かっているからといってその子の尊厳自体がなくなるものではない。生きることのすばらしさが別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない」という記述を行ったと想定する。まず、キーワードとして、「その子の尊厳自体」と「別の世界観」を挙げることができる。
この記述は、これまでの事例における「子どもは、親の希望に応じて存在するとは思えない。一個の別人格を持つ人間である」、「障害があることを全てマイナスに捉えてはいけないと思う。思いやりも障害によって養われることもある」、「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる」といった記述と類似している。また、遺伝子レベルへの技術的介入に対して明らかに懐疑的である。しかし、先の記述には、これらの記述では明確に表現されていなかった別のテーマが見られる。
「別の世界観」という言葉は、「一個の別人格」という言葉と共鳴している。だが、それだけではなく、「別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない」という表現においては、親と子が共有し得る「別の世界観」が、ある「世界観=X」と対比されている。この「別の世界観」は、子どもという他者の「尊厳自体」が、そして子どもとともに「生きることのすばらしさ」が、「親と子に与えてくれるかもしれない」ものである。言い換えれば、ここでテーマ化されているのは、子どもという他者の他者性それ自体ではなく、むしろ以下のことである。
(1)子どもの他者性がもたらす「別の世界観」を親が子どもと共有する可能性
(2)「別の世界観」が「世界観=X」に対して持つ他者性
 この「世界観=X」は、「遺伝子疾患という属性を持った人は、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という言表が表現する世界像である。そこには、「別の世界観」が存在する余地がない。言い換えれば、「成長とともに難病などになってしまうと分かっている」にもかかわらず技術的介入が為されなかった子どもという他者が存在する余地がない。だからこそ、「別の世界観」は、「世界観=X」が表現する世界に対する「別の世界」を表現している。言い換えれば、「世界観=X」とは、「遺伝子改造による難病等の属性が除去された状態」と「除去されていない状態」という二分法が前提され、こうした属性の除去あるいは予防という思想と実践が偏在する世界のイメージである。
「別の世界観」は、この「世界観=X」と対比されている。そして、子どもという他者の「尊厳自体」は、「世界観=X」による生存の序列化に抵抗し、そこへと回収され得ないものとしてイメージされている。
 次に、先の個人が、テーマ文2に対して、「確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自信が持てることから発生する部分もあるとは思えるが、しかし、真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受け止め、生きることのすばらしさを発見するところにあると思う。人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにあるのではないかと思う」という記述を行うと想定する。
まず、「真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受け止め、生きることのすばらしさを発見するところにある」という記述には、子どもという他者の「尊厳自体」が反響している。ここでも、子どもとともに生きることのすばらしさが、親と子に与えてくれるかもしれない「別の世界観」を子どもと共有する可能性が記述されている。「どの様な局面に対しても自らが受け止め、生きることのすばらしさを発見する」とは、子どもという他者の到来を自らが受け止めることによって、子どもの他者性がもたらす別の世界観を親が子どもと共有することである。
また、「人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにある」の「人が生きること」は、「人が生きることの尊厳」と言い換えることができる。ここにも、子どもという他者の「尊厳自体」が反響している。というよりむしろ、自らにとっての子どもという他者の「尊厳自体」を想定することが、「人が生きることの尊厳」あるいは「真の尊厳」を発見させる。さらに、「技術的・科学的な部分が及ばない」は、「世界観=Xによる生存の序列化へと回収され得ない」と言い換えることができる。すなわち、「人が生きること」は、あるいは生存それ自体は、ハイテクノロジーによる生命の選別という思想と実践が偏在する世界にあっても、本来的に序列化され得ないものとされている。先の記述の冒頭で、「確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自信が持てることから発生する部分もあるとは思える」に続く「が、しかし」という表現が示していることは、この個人が、「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という認識を持っているということであろう。子どもという他者性がもたらす「別の世界観」は、この認識を通過する過程で記述されたといえるだろう。
次に、先の個人によって、テーマ文3に対しては何一つ記述がなされなかったと想定しよう。これまでの分析を前提とするなら、私たちはこの想定をどう考えればよいのか。テーマ文3は、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話として、遺伝子検査や診断によって、これから生まれてくる自分の子どもに深刻な問題が見つかった場合産みたいと思った子どもだけを産むことができるようになる。治療方法のない難病などの場合、個人やカップルの選択により受精卵の廃棄・選別もやむを得ない」というものであった。ここで、直前の事例におけるテーマ文3に対する「…と思う」という「記述の空白」が想起される。だが、これまでの分析から判断するなら、直前の事例と本事例との間には、文脈生成における一貫した差異があるのではないか。言い換えれば、本事例に対しては、「無意識の否認」という分析は妥当しない。ここでは、無意識の否認を支える<排除>のメカニズムが機能していない。
 それでは、この記述の空白は、これまで見た文脈生成過程のうちにどのような位置を占めるのか。私たちは、ここにおいても、たとえそれが「世界観=X」と重なるかもしれなくとも、自分とは異なる他者の抱く「別の世界観」への顧慮があると考える。この場合、先の(1)と(2)は、次のように変容する。
(1)他者の他者性がもたらす共有し得ない「別の世界観」への顧慮
(2)「別の世界観」が、この私の世界観に対して持つ他者性
この個人にとって、「カップル」という他者の他者性が、その前では沈黙せざるを得ない記述の壁となっているのだろうか。私たちもまた、いったんはこの問いの前で、沈黙のうちへと投げ返されることになる。

「生存とテクノロジーを巡る覚書17」[2005.6.6,8,11,14-16,23,24,30.記述分]
次の事例では、実験的に、テーマ文1とテーマ文2の両者に対する応答記述を同時に提示する。特にこの事例において、私たちの文脈生成の分析が、個々の記述の意味内容の解釈を目的としていないことが示されるだろう。だが、ここでの分析は、これまで以上に困難なものとなることが予想できる。以下に事例を示す。ある個人が、テーマ文1,2に対して、「確かに、遺伝子が解決されれば、全て、生きとし生けるものに係わることは、解決されるに違いない(以上テーマ文1への応答記述)しかし、ほんとうにそうなるだろうか。クローンの動物は早死しているし、所詮、人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう(以上テーマ文2への応答記述)」という記述を行ったと想定する。ここでは、テーマ文1,2に対する記述が、「確かに~しかし」という典型的なフレーム内部で連続的に構成されており、いったん提示された仮説に対する懐疑的な問題提起がなされている。テーマ文1への応答記述は、「遺伝子レベルでの生きとし生けるものに係わること全ての解決」といった極端な表現だが、その意味内容を考えることは、この個人にとっても不可能であろう。つまりこの記述は、それ自体としては判然とした意味内容を持ち得ない。
すなわち、この個人にとって、また私たちにとっても、この記述がそれ自体としてどのような意味内容をもつのかは重要ではない。むしろここで重要なのは、「ほんとうにそうなるだろうか」という反語的表現である。すなわち、ここで語られているのは、この個人がどこまで意識しているかは別として、「(その内容は判然としないが)遺伝子レベルで生きとし生けるもの全てに係わることが解決するという観念に対して、私はかなり懐疑的である」ということである。そのことは、後続する「クローンの動物は早死しているし、所詮、人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう」という記述によってある程度裏付けられている。なお、ここでの「クローンの動物は早死している」という表現は、これもこの個人がどこまで意識しているかは別として、「テロメアTelomere」といった言葉を通じて比較的よく知られている科学的知見を背景にしている。
それでは、「所詮、人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう」という記述をどのように読めばいいのか。この問いも、文脈生成の分析が、記述の意味内容の解釈を目的としないという立場からは的外れなものとなる。また、先の表現と同様に、その意味内容を考えることは、この個人にとっても、また私たちにとっても不可能である。また、この記述がそれ自体としてどのような意味内容をもつのかは重要ではない。もちろん、「人は神になれるかという哲学的な問題」が解決されることはこれからもない。またそもそも、この「哲学的な問題」自体の意味が、本当に理解されることはないだろう。むしろ、この個人によるテーマ文1,2に対する応答は、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という、少なくてもこの個人にとって、そして結局は私たちにとっても判然とした意味内容を持ち得ない記述または観念に対する懐疑を表現している。
それでは、この「懐疑」とはどういう事態なのか。少なくてもこの段階では無意識にとどまる状態において、テーマ文1,2が提起する問題に対する判断が保留されている。ここでデカルト・スピノザに由来する知的伝統を顧慮するなら、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という観念は、「判然としたものになり得ない」という観念としての不完全性故に、少なくてもこの個人によっては、そして結局は私たちにとっても、受容され得ず無意識にとどまる。言い換えれば、この(いわば括弧付の)「観念」は、この個人あるいは私たちにとって、意識が映し出す観念として成立し得ていない。このことは、逆に言えば、この個人の、そして<我々自身の無意識>に、この観念が執拗にとどまり続けていることを示している。無意識とは、いまだ観念ではない何かである。
 ここで参照したいのは、先に見た、テーマ文1,2の応答記述の分岐を説明する一般的仮説である。先の記述では、分岐よりも連続性が目立っていた。その連続性は、根底的な文脈生成過程の効果と考えられる。そこで、先の一般的仮説を包括する、より根底的な以下の「仮説」を提起する。
[1].一般的仮説が説明するテーマ文1,2に対する応答記述の分岐は、より根底的な文脈生成過程の連続性の効果である。
[2].先の事例におけるテーマ文1,2に対する応答記述の連続性は、より根底的な文脈生成過程の連続性を表現している。
以下に、既述の一般的仮説を簡略化して示す。
(1).テーマ文1は、「健康への欲望に基づく遺伝子の改変」として肯定的に意識(応答)される傾向がある。
(2).テーマ文2は、「属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」として否定的に意識(応答)される傾向がある。
(3).以上二つの応答意識の違いが、テーマ文1,2の応答記述の分岐に対応する。
ここで、先の事例を考慮しながら、上記「仮説」を一般的仮説に適用して更新すると、以下のようになる。
【更新された仮説】:「健康への欲望に基づく遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」という応答記述は、根底的な文脈生成過程の連続性の効果であり、その連続性を表現している。
それでは、この「根底的な文脈生成過程の連続性」とはどういうものなのか。この問いは、これまでの分析において一貫して問われ続けてきたものだが、以下において、先の個人によるテーマ文3への応答記述の分析によってさらに追究していきたい。
テーマ文3では、「不要」になった受精卵の選別・廃棄といったケースが提示されていた。ここでテーマ化された受精卵の選別・廃棄という行為は、致死的な難病にとどまらず、例えば「攻撃性」といった曖昧な観念と関係付けられた遺伝的因子を持った子どもの予防をも目指すものとして想定されている。また、この行為は、遺伝子の改変という行為と同様に、これまで私たちが一般的仮説において仮定してきた「(心身の)健康への欲望」と「属性の序列化への欲望」の両者を内包している。言い換えれば、この行為をテーマ化したテーマ文3への応答記述の分析によって、「健康への欲望に基づく遺伝子の改変」と「属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者の文脈生成過程における連続性の分析を行うことができる。
そこで、先の個人が、テーマ文3に対して、「さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし、現実問題、自分の身に置き替えてみると、遺伝子に傷がついていた、変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている」という記述を行ったと想定する。これにより、上記の「健康への欲望に基づく遺伝子の改変」と「属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者の文脈生成過程における連続性を次のように考えることができる。これら両者は、どちらも生命の序列化・選別という行為であるが、そのことへの認識の生成は、<我々自身の無意識>において「予防的に排除」されている。この予防的な排除のメカニズムが、既述の一般的仮説で示された「健康への欲望に基づく遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」というテーマ文1,2の応答記述の分岐を生成する。
しかし、テーマ文3によってテーマ化された受精卵の選別・廃棄という行為に対する応答に迫られた個人は、同時に、無意識における予防的な排除のメカニズムが揺らいでいく過程に直面することになる。言い換えれば、この揺らぎの過程が、同時に「健康への欲望に基づく遺伝子の改変」と「属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者がどちらも生命の序列化・選別という行為であるという認識の生成過程となる。私たちは、この揺らぎの生成過程に、これまでの分析においても度々出会ってきた。根底的な文脈生成過程の連続性の効果に言及する先の【更新された仮説】は、この過程に対してこそ妥当する。
だが、これまでの多くの事例において見てきたように、この認識の生成は、執拗な予防的排除のメカニズムの抵抗に遭遇してきた。個人が、自らの認識あるいは言葉の生成にたじろぐのはここである。そして、まさに先の「さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし、現実問題、自分の身に置き替えてみると、遺伝子に傷がついていた、変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている」という記述において――通常の用語で「葛藤」と表現される――先の認識の生成と予防的排除のメカニズムとの無意識における遭遇の「意識化」という事態が表出されている。より単純化して言えば、「考えたくないと思っている」という形で意識化された判断保留の選択である。
本事例で意識化された、生命の序列化・選別に対する無意識の肯定的ファクターは、第二文の「変な子」という表現として表出されている。<我々自身の無意識>は、この「変な子」をいつもすでに受胎しているのかもしれない。

「生存とテクノロジーを巡る覚書18」[2005.7.11-13,16,17. 記述分]
これまで行ってきた私たちの分析も、第1ステージに関して、あと三つの事例を残すのみとなった。[本言表分析は、分析対象母集団のタイプを異にした第2ステージで終了予定である。]
ある個人が、テーマ文1に対して、「遺伝子を変えることで、難病など、事前に防げるとしたら大変良いことだと思います。しかし、生命体の根元である遺伝子を操作して、その為の弊害は? 人間が、人間を変えることに恐怖さえ感じる」という記述を行ったと想定する。もちろん、この事例に関しても、私たちの分析は、これまでと同様に、個々の記述の意味内容の解釈を目的としない。
まず、「事前に防げるとしたら大変良いことだと思います」という記述から、難病の予防に関しては、遺伝子の改変に対してかなり肯定的であると言える。だが、それだけに、引き続く「弊害」や「恐怖」といった言葉によって、自らの反応に対する強い「葛藤(アンビバレンス)」が無意識の内に表出されている。ここで「無意識の内に」という表現を使うのは、表出された葛藤が、意識化(対象化)された命題としての遺伝子改変への肯定に対するものではなく、肯定的な反応を示した自分自身、すなわち自らの反応に対するものだからである。こうした自己に内在する揺らぎは、これまでの事例においてもしばしば見られた。このように、自己形成過程としての自分自身との対話は無意識の内に行われる。
言うまでもないが、第一文と第二文をつないでいる「しかし」という接続詞は、単純な対立関係を示してはいない。「しかし」の直前の「大変良いことだと思います」は、「しかし」以下の記述によって単純に否定されることなく、いわば括弧に入れられ、強い懐疑に晒されている。だが、「しかし」以前の記述の生成過程において、その記述を覆すような認識はいまだ生成していないし、先取り的に意識化されてもいない。他方、既述のように、自己との対話はすでに始まっており、その過程が後に見る記述の生成につながっている。
これまでの事例で見られたテーマ文1,2の応答記述の肯定・否定の分岐が、ここではテーマ文1への応答記述において無意識の内に先取りされている。これまでの多くの事例では、テーマ文2への応答記述にいたってはじめて顕在化した葛藤が、すでにテーマ文1への応答記述において表出されている。その意味において、この応答記述が内包する<我々自身の無意識>は多層的であり密度が高い。言い換えれば、このテーマ文1への応答記述において、葛藤はすでにかなりの程度意識化されつつある。とはいえ、それはまだ何らかの批判的認識へと展開してはいない。
それでは、この場合想定され得る批判的認識とはどのようなものだろうか。それは例えば、上記の「弊害」が、子孫まで永続し得る種の改変レベルの事態であるという認識であろう。おそらく、この意味での認識は、ここではまだ生成してはいない。「人間が、人間を変えることに恐怖さえ感じる」という感情は、種の改変という事態を漠然と予想しているように見える。だが、先の個人は、その問題に自らを直面させてはいない。
もしある個人が、「問題に自らを直面させる」ならば、それは、この私の選択する行為がヒトという種の改変をもたらすという事態を認識した上で受容することが必要であろう。言い換えれば、自らの選択した行為の結果としてその「責任=応答可能性(responsibility)」を引き受けることを意味する。先の個人が、「恐怖さえ感じる」という受動的なポジションにとどまっている以上、いまだこうした責任のポジションにないことは明らかであろう。  
だが、言うまでもなく、この問題に関しては、先の個人に限らず、どのような個人も厳密には責任のポジションには立ち得ない。私たちは、少なくても現状では、実際に種を改変し得る選択の場に立つことはできないし、また仮に選択し得たとしても、その選択の時点から無際限に続く時間の中でのヒトという種の変容に対する責任=応答可能性を負うことはできないだろう。そのような選択の場に立たされ、選択した後は、もはや責任を取り得る地点への後戻りは不可能である。ここには、「原理的な無責任」あるいは「原理的な応答不可能性」が、無意識の内に我々に強いられてしまう構造がある。
 次に、先の個人が、テーマ文2に対して、「多分、将来そんな時代が来ると思いますが、生命の神秘、人間が個性を持って生きることに関して、誰かが、生きることを操作していることと同じである。いろいろな人間がいてこそ、社会であることの証明である」という記述を行ったと想定する。まず、「多分、将来そんな時代が来ると思いますが」という表現は、必ずしも近未来のイメージをともなった現状肯定的な構えを表現しているのではなく、「将来そんな時代が来るかどうか」に関して、この私は何ら有効な決定権力を持ち得ないという(「この私」のレベルが意識化されることのない)暗黙の前提を示している。この無意識の前提は、これまでのほとんどの事例において共有されていたといえよう。
ここでは、有効な決定権力の主体は、「誰かが、生きることを操作している」という表現の匿名の主語、すなわち「誰か」という言葉で示されている。実際のところ、「多分、将来そんな時代が来ると思いますが」というこの個人の言葉を、我々が素朴に批判することはできない。それは我々にとって、文字通り困難なことである。もし<我々>が、「原理的な無責任」あるいは「原理的な応答不可能性」が無意識の内に強いられてしまう構造の内部にすでに位置するのだとすれば。
テーマ文1への応答記述においてある程度意識化された葛藤が、ここでは葛藤状態としての自らを超え出た普遍的な認識へと展開している。その認識は、「人間が個性を持って生きることに関して、誰かが、生きることを操作していること」や「いろいろな人間がいてこそ、社会であることの証明である」という言葉によって表現されているが、この個人があらためてその認識の普遍性を吟味しているわけではないし、ここではその必要もない。
 次に、先の個人が、テーマ文3に対して、「前問で書いた通り、遺伝子の操作は、難病限定とか、医者のモラルなど、しっかりとした法律など出来れば良いのかなと感じるが、人間はどこまで行っても人間である以上、子孫のことは、放棄してもらいたい」という記述を行ったと想定しよう。
「前問で書いた通り」の「前問」は、単に直前のテーマ文2への応答記述[以下2とする]のみではなく、テーマ文1への応答記述[以下1とする]をも参照し指示している。つまりここには、1と2への二重のベクトルを持った参照・指示がなされている。1の対象化が「遺伝子の操作は、難病限定とか、医者のモラルなど、しっかりとした法律など出来れば良いのかなと感じる」を導出し、2の対象化が「子孫のことは、放棄してもらいたい」を導出している。従って、この段階における対象化によっても、アンビバレントな二重性は残存しており、少なくても難病の予防に関しては、生命の選別というテーマに関わる普遍的な認識へと向かう文脈は生まれてはいない。他方、「子孫のことは、放棄してもらいたい」という表現から、「弊害」が子孫まで永続する種の改変レベルの事態であるという認識の萌芽は生まれてきている。それだけに、本回答3によってこの個人における無意識の強い葛藤の存在が明らかにされたと言える。
だが、葛藤(アンビバレンス)というレベルを超え出て、いつ二重のベクトルを総合する普遍的認識の創発という出来事が生じるのか、それはただ深い謎という他はない。

「生存とテクノロジーを巡る覚書19」[2005.7.19-21.記述分]
ある個人が、テーマ文1に対して、「染色体異常の難病など、遺伝による病気が治せればいいなという期待もあるけれど、生命に関わることなので、倫理観が問題。手を付ける前に、その問題をはっきりさせたい」という記述を行ったと想定しよう。この事例においても、テーマ文1への応答記述において、難病予防への「期待」と「(生命に関わる)倫理観が問題」という両方向へと分岐した表現が見られる。しかし、直前の事例において見られたような無意識の葛藤(アンビバレンス)は、ここでは表出されてはいない。つまり、この表現の分岐は、必ずしもアンビバレンスに対応するものではない。むしろ、無意識の葛藤は、「(生命に関わる)倫理観が問題」という言語化(対象化)を経ることで回収されている。どういうことだろうか。
「手を付ける前に」という表現から、遺伝子改変に対する肯定的なベクトルの方がより強いように見える。だが、ここでは、「(生命に関わる)倫理観が問題」という言語化によって、遺伝子改変に関わる判断は保留されている。また、「手を付ける前に」という表現が、「手を付けること」という遺伝子改変行為をどこまで前提としたものなのかは分からない。さらに、「手を付けること」の内実がどの程度意識化されているのか、または具体的にイメージされているのかも不明である。
しかし、その具体的なイメージがどのようなものであれ、テーマ文において提示された遺伝子改変行為に「手を付ける前に、(生命に関わる)倫理観の問題をはっきりさせたい」という問題提起を行っている以上、この個人によって「手を付けること」の内容が具体的に対象化されている必要はない。単にテーマ文で提示された程度において意識化されていれば十分である。ここで重要なことは、無意識の葛藤の言語化によって、その葛藤が公共的に討議可能なテーマへと変換されるということである。これが、先に述べた言語化(対象化)による回収という事態の意味である。
「(生命に関わる)倫理観が問題」といった言葉を発明または発見することが、問題の社会的共有への通路を切り開くことになる。例えば、歴史的事象としてはもはや陳腐な昔話でしかないが、かつて「生命倫理(Bioethics)」という言葉が発明または発見されたときに生じた文脈生成の場面が想起される。以来、その是非は別として、「生命倫理(Bioethics)」という言語化による多様な事象の回収が生じることになった。そもそも、古いものから新しいものまで、「医学」や「心理学」、「バイオインフォマティクス (Bioinformatics:生体情報学)」等の学問・研究領域の名称は全てそうであるが、そういった言葉の発明または発見は、あらゆる事象の統御・操作・予測可能性への道を切り開くということは今さら言うまでもない。
この個人によって提起された問題は、例えば、「遺伝子の改変という行為は、一切の留保条件なしに却下されるのではなく、生命に関わる倫理観の問題(生命倫理の問題)をクリアした厳しい拘束条件の枠組みにおいては遂行され得る」といった公共的な合意があり得た場合の拘束条件の決定という問題として読み替え可能である。言い換えれば、この個人の応答記述によって、「遺伝子改変は条件付で是認可能」という立場が対象化(意識化)可能な形で提示されている。その意味で、この応答記述は、これまで多くの事例で見られた無意識の葛藤を公共的な討議の対象とすることへと道を開いている。「(生命に関わる)倫理観の問題をはっきりさせたい」という欲求は、その過程を通じて遺伝子改変という行為が是認されるにせよ却下されるにせよ、また是認や却下に関わる原理・原則や拘束条件がどのようなものになるにせよ、本来はこうした討議を徹底して行うことによって充足される必要があるだろう。
次に、以下においては、テーマ文2と3の両者に対する応答記述を同時に提示する。先の個人が、テーマ文2,3に対して、「1で述べたように、技術的な可能性だけで話を進めると、クローンの領域にまで行ってしまう。SFの世界が現実になったら恐ろしい。人類滅亡への道を加速させてしまう(以上テーマ文2への応答記述).遺伝子操作は、どこまで許されるのか。社会的・身体的弱者は、社会の邪魔者というイヤらしい発想が垣間見える(以上テーマ文3への応答記述)」という記述を行ったと想定する。
この記述に出会った者は、先の記述の一見クールな地平から、唐突な距離感を持った熱い記述の地平へと一挙に連れて来られたかのように感じるだろう。先の記述が公共的な討議への道を切り開いたのに対して、これらの記述は「主観的な強い懐疑の意識」へと後戻りしているかのように。
だが、後戻りという表現は適当ではない。むしろ、これらの記述は、先の公共的な討議のシミュレーション(先取り・模擬演習)であると言えるだろう。ここでの、「遺伝子操作は、どこまで許されるのか」という問いかけは極めて真剣な響きを持っている。言い換えれば、先の「遺伝子改変という行為が是認されるにせよ却下されるにせよ、また是認や却下に関わる原理・原則や拘束条件がどのようなものになるのか」という「生命に関わる倫理観の問題」をここで考えようとしている。もちろん、単純に「遺伝子改変は条件付で是認可能」という立場を取っているわけではない。
むしろ、それに引き続く「社会的・身体的弱者は、社会の邪魔者というイヤらしい発想」という言葉は、「技術的な可能性だけで話を進める」ことへの明らかな批判である。ここでの「話を進める」こととは、公共的な討議をあらかじめ回避したものとしてイメージされている。それは、先の事例における「誰かが、生きることを操作している」という表現の匿名の主語、すなわち「誰か」たちだけが決定するということであるだろう。このような風景は、私たちにとって見慣れたものではあるが。


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